アイデンティティが定まらない気持ち悪さ

仕事でワラワラしてたら前回のエントリから1週間以上も経ってしまった。コメントいただいたみなさま、ありがとうございました。
私は日本国籍をもってのうのうと暮らしてきたわけで、実際に当事者の人がどう思っているかということを代弁することはできない。なので、「在日」として暮らす彼らがなぜ日本国籍を取得しないのかということは、実際に聞いたりした人についてしか知らないし、そもそもそんな大雑把にくくることはできないことだと思うのだけれど、彼らが「日本人になりたい」と思っているかといえばそんなことはないだろうと思っている。思っている人も中にはいるかもしれない。でも何のわだかまりもなくそう思える人が多いなら、こんなこと「問題」にならないだろうと思う。世界中で起きているいろんな問題も同じで、そんな簡単に割り切れることならもっとすんなり解決する、もしくは問題にすらならない、という事は多いだろうと思う。
自分のアイデンティティがどこにあるか?ということを考えるとき、白ともいえるような黒ともいえるような、もしくは白とも黒ともいえないような、または白でも黒でもなく赤やら緑やら黄色のような気もするというような状態は結構気持ちの悪い、おさまりの悪い状態で、それは結構しんどいことのはずだ。黒か白かはっきりつけたい、という感情はたぶん誰にでもあって、てんびんの右と左のバランスを常に取り続けなければならないような状態、もしくはどちらにも振り切れないような状態そのものは、結構しんどい。そういうしんどさに加え、「どっちかはっきりしろよ」とまわりが勝手にカテゴライズしようとし、「どっちかはっきりしない人にはご褒美あげないよ」みたいな圧力をかけることがさらにしんどさを加速させる。そういうことへの想像力・共感力のなさが、問題をさらに大きく、根深いものにしているんじゃないだろうかと私は思う。
他の国がどうしているか、とか慣習的にどうだとか、そういうことじゃない。私たちが、これから生きていくこの社会を、どうしていくのか、どうしていきたいのか。白も黒も認める、白でも黒でもないものを認める、白でも黒でもあるものを認める、という道を選べないものか?きれいごととかいって諦められるのは、結局自分の痛みじゃないと思っているからだろうと。自分が「痛い」という状態になるとは思っていないからだろう、と。
ところで、また少し違う立場の人々の話だけれど、たとえば移民として日本から南米に渡った人々の子孫で日本にやってきた人々がいる。彼らも同じ「日本人」としてのルーツをもつけれど、まったく異なる文化の国や言葉で育っており、日本語を話せない人もたくさんいる。そういう人々がこの不況で本当に苦しい状況に追いやられているけれど、じゃあこの人たちを支援しようって思うか?たぶん多くの日本人は「そんなん知らんわ。」ってなる。というか、すでになっている。
たぶん多くの人に「自分が苦しいときにそんな人間のことまで考えてられるか!」という意識があって、そうやってどんどん狭いカテゴリーの中でしかモノを考えなくなって、自分がそのカテゴリーから追い出されたときに初めて「あれ?」ってなって、その追い出された人のなかでさらに狭いカテゴリーを作って他の人を追いやって……ていう。結局みんな「痛い」。そんなカテゴリー、いるか?
違いはある、あっていい。違うものの中で同じことをみつけて嬉しくなったり、同じものの中で違うものをみつけて嬉しくなったり、そんなんは別に構わない。でも、自分の痛みを軽減するためだけのカテゴリー、いるか?違いをみつけることが、そういうためのものになっていないか?「痛い」のは嫌だ。でも、「みんな痛い」よりも「みんな"ちょっとずつ"痛い」のほうがよくないか?