言葉を奪われることは文化を奪われること

昨年あたりから米原万理にずいぶんはまって何度も読み返している。彼女は通訳としての経験から言葉や文化についていろいろ書き残しているのだけれど(残念ながらすでに亡くなっているので新しいものはこれ以上出てこないのが惜しい)、読めば読むほど言葉というものがどれほど文化を下支えしているか、そしてその言葉を奪われることがどれだけ残酷なことか、ということを考えさせられる。
日本がやってきた様々な侵略行為を、そもそもやっていないとか、侵略行為ではないとか、いろいろなことを言う人がいるけれども、そしてもちろん私が歴史のすべてを知っているわけではないけれど、少なくとも日本語を使うことを強要し、もともと使っていた言葉を使わせない、ということをしていたことは否定できないはずだ。そして、言葉を奪うということは文化を奪うということと同じだ。
文化は音楽や伝統芸能やそういうものだけではない。私たちの生活すべてにわたって染み込んだ考え方や行動、様式、慣習、「空気の読み方」のようなものにいたるまで、それらを包括しているのが文化であり、それを下支えしているもののひとつが言葉であり、他に替えのきくものではない。だからこそ、日本で生まれ、育ち、日本語を習得しながらも、それが自分を下支えする文化を支える言葉ではないと感じている彼らが、彼ら自身の言葉や文化の中で教育を受ける機会は日本人と同じ様に保障されるのは当然だと私は思う。(そして、それらはもちろん朝鮮に限らない)

@hayashimasaaki:高校無償化から朝鮮学校がはずされた。夏に結論とのこと。私は日本人として恥ずかしい。こんなことも実現できないのか。日本で生まれ日本で育ち働き、税金を払い結婚し、ほとんど日本で死んで行く在日朝鮮人ではないか。差別好きの日本人の道徳性・倫理性・精神性は低下している。

自分の何世代も前の人間がやったことだから自分の罪ではない、と思うのは違うと私は思う。彼らが彼ら自身の言葉を取り戻せないままの現状を傍観しているだけで(もしくは「出て行け」とか「帰れ」とか叫び続けるだけで)、彼らがなぜここで生き続けようとし、なおかつ自分たちの文化を守り続けようとするのか、それを理解しようとしないのも同じくらい罪深い。幸せのありようはそれぞれ違っていても、みんな少しでも幸せに生きたいと、必死でもがいている。それのどこがいけないというのか?自分の幸せは誰かを不幸にすることでしか得られないのか、それは本当に幸せなのか。
最近、少し嬉しかったこと。数年前にいつか一緒に何か仕事ができたらいいね!と語り合ったある先輩が、最初の目標をクリアして弁護士になったこと。彼が少しでも力になれたらと、京都で昨年末に起こった朝鮮学校への嫌がらせへの抗議する文書に名前を連ねていることを知ったこと。いつか本当に一緒に何かできたらと思う。そのためにも、少しでも経験と智恵と連帯を広げたいとあらためて思った。