「優秀な人」っていったいどれくらいいるの?

昨日の投稿に対するミッキィさんのコメントを読んで思ったこと。

「時短勤務」って周りの負荷が高いんだよね。

特に、客先常駐の現場で、何人/月って契約だと、
人数の追加もできなかったりするから、
同じ現場の人にもろに負荷がかかるわけで。

これは人員配置の工夫次第で乗り越えられる問題だと思うけれど、

「育休」期間長くして、「時短勤務」をなくすとか、

こっちはどうかなぁ。
そもそも「時短勤務」にするのは保育の問題があるからだと思うし、「育休」をむやみに伸ばせば現場に戻ることは難しくなると思う。担当業務によっては時短勤務者にも十分こなせるものもあるはずだし、いろいろな業務を知ることによってその人にとっても、組織にとってもよい効果をもたらすことはできるはずだと思う。
そしてこういう問題を考えるときに現実を振り返ってみると、こういう話で会社と個人が揉めたり、悩んだりという話が出るときに当事者であるはずの父親のことが出てくることがなんと少ないことか!ということが腹立たしい。生活にお金は必要だけれど「働いて収入を得て家族を養う」って、それって本当に子どもの人生にコミットしていると言えるのか?自分と家族の生活が交錯して、悩んだり頑張ったり苦労したり喜びを得たりして、はじめてコミットしてるって言えるんじゃないか?なんだかのほほんと「子どもができたんです」って嬉しそうにしている男性を見るにつけ、「この人、自分が妊娠したらそんなのほほんとしてられたのかなぁ」と心の中で突っ込んでしまう。実際、彼の家庭にどういうやり取りがあるかは他人の私にはうかがい知れないことだけれど。生活するために「働いて収入を得る」ことは必要、でもそれは自分が子どもの人生にコミットするということとは別のこと。子どもを養うってことは、単に栄養補給するってことだけではないはず。家畜じゃないんだから。
「家族のために」という親の言葉が詭弁に聞こえてしょうがなかった自分の子ども時代を振り返ると、子どももそういうことってたぶんわかってるだろうなぁと思う。子どもは「この人は自分にどれだけ関わろうとしているか」ということを、見ている。それは自分の人間としての生き方を見つめられている、ということでもあると思う。

あと、うちの会社だと、「優秀な人材の喪失を防ぐ」という目的もあって、
時短勤務の制度があるだが、「優秀」な時短勤務者にいまだ出会ったことが無い。

「優秀な人材の喪失を防ぐ」ってよく聞くけど、私はそれって凄く胡散臭くて危険な思想に基づいた発想のように思えて仕方がない。「優秀な」人っていったいどれくらいいるもんなんだろう?「優秀」ってどういうことを指すんだろう?で、自分はどうなのか?なんだかな……という感じ。(そんな「優秀な」人がごろごろしてるものなら、世の中のかたちは今とはまた別のものになっていたはず)決して「優秀」ではない、凡庸な人間だとしても人間として当たり前に生きることのできる、そういう社会であってほしいと思うし、そういう社会を作るために何かしなくてはと思う、理想論と言われても「理想論だから」で切り捨てられるほど生きやすい社会ではないからこそ。自分も凡庸な人間のひとりだと思うから。