先生はえらい

あっというまに読了。
それにしても、同じように「ふんふん、なるほど〜」って思いながら読んでても、読み終わったあとに「いやー面白かった」っていうのと「だから何なのさ」っていうのとあるけど、その差はどこから来るんだろう?
ちなみに今回は前者。それは、ラカンの思想について私はあまりよくわかっていなかったっていうこともあって新しい知識を得たっていうこともあるけど、もちろん。この間みたいなこともあるし、それって何なのかなぁ。

それにしても。私がめぐりあったすてきな先生たちに共通しているのは、「教える」ということの限界性をわかっているということだと思う。
学びが学ぶ側の主体性によらなければ成立しないということ、そのために必要な材料を自分は提供しているだけだということを知っていること。
そしてその提供に関しては「持ってけドロボー!!」と気前よくいられること。
それをその後どうするかについては自分は関与できないということをわきまえているということ。
私にとってのすてきな先生というのは(そしてそれは先生に限らないけれども)、
「この人は私の知らないワンダーランドに連れていってくれる」
だろう、と思わせてくれる人なんだと思う。

恋愛においても同じ、という内田樹の主張にはまったく同意するほかなくて、私にとって恋愛が終わる時というのは「この人との将来」が見えてしまった(ような気になって)面白くなくなった時であって、「この人はまだ私の知らないジョーカーを隠し持っている」と思い続けられる限り、私はその人に恋し続けることができるのだと思う。もちろん、自分はそう思っていても相手にとってそうでなければ終わりにされてしまうこともあるのだけれど。

そんなこんなで。私はあと1ヶ月後にはうれしはずかし同棲生活に突入するのだけれど、いつまで彼はジョーカーを持ち続けられるのか、私はいつまで彼にとってエイリアンであり続けられるのか(それも魅力的な)ということに戦々恐々としていたりするのです。