私は基本的にはずっと学校というところが嫌いでした。
理由はいろいろありますが、別にそんなかっこいいもんじゃないです。
まず「きちんと」が苦手だっていうこと。
「きちんと」遅刻せずに学校に行くこと、「きちんと」課題を提出すること、そういうこと全般がどうも苦手だということ。
(でも何で私が「きちんと」が苦手なのか、ということについて真剣に考えてくれる人はいなかったような気がします。もちろん私もいまだよくわかりませんが、とにかくこれは私の「どうしようもなくダメな性質」としか認識されてこなかったような気がします。それでずっと「私はダメな子」だと自分で自分に烙印を押してきましたが、大学生になってから同じような人たちを見つけて心底ほっとしたことを覚えています)
それから集団とうまくやっていくことが苦手だっていうこと。
特にグループ課題とか苦手…どうしても温度差を感じてしまうのですね。どこに行っても。そうすると本当にやる気がなえてしまうのです。そしてそういうところからダッシュで逃げたくなります。
まあ、そんなこんなで学校という場はどうも苦手でしたが、そこで出会った人たちとの出会いは悪くなかったと思っています。友人しかり、先生しかり。

すてきな先生については、すでに書きましたが(2005/02/16)今日こんな記事を見つけました。

私のまわりでも何人か教師をめざしている人たちがいます。
その中にはこの記事に出てくるように講師をしながら、教員採用(公私立とわず)にトライしている人もいます。
私は彼の身近で、彼の教師としての仕事ぶりや彼の人柄をずっと見てきて、この人には先生になってほしいなぁ、きっといい先生になるだろうに、といつも思っています。
でも、講師として熱心であればあるほど、採用試験のための勉強の時間はとれなくなる。だって、講師として目の前にいる生徒を放っておけるわけはないのですから。
もちろん、講師としての職責を果たしつつ採用試験に通っていく人たちもいるでしょうけれど。でも。
先生というのは何も「超人」である必要はないのです。親がその子どもの誕生と同時に、子どもとともに成長しながら「親」になっていくのと同様に、先生だって子どもと一緒に成長していくものではないのですか。それも常に。
もちろん、だからといってでたらめばかり教えるようでは困りますが…。

何らかの選抜をしなければいけない以上、そこに試験の必要があるのはわかります。私もこんなことを言いつつ、どうしたら「よい先生(になる可能性を持っている人)」を選抜できるのかなんてわからないけれど、でもなんだかやりきれなさを感じてしまうのです。

願わくば、彼が自分の能力と可能性を発揮できるよい職場にめぐり合えることを、心から願うばかりです。