-
何でもいいから書き殴りたくなって、
それはまさに「書き殴る」というのに相応しい衝動で。
鉛筆持って書いていると、書くそばから書きたいことを忘れてしまいそうで、そんな忘れてしまうようなことは本当に書きたいことではないのかもしれないけど、それでも何か書きたくなって、かわりにパソコンのキーボードを叩く。
あぁ、壊れてるなって思う。
それでも、こんな時間にはひとりでいるしかできないし、
こんな夜に限って誰もメッセにログインしてないし(笑)
誰かに何かを話そうにも、どうして何が話したいのかもわからないから、とりあえずこの状態をどこかに記すしかない。
こんなワールドワイドに誰かに見られてしまうようなところにわざわざ足跡を残そうとしているところからしてまず情けない。というよりもヘタレだなって思う。自分の弱さをさらけだして、情けなさを顕にして、私はいったい何がしたいのか。なぐさめてほしいのか、同情してほしいのか、「よしよし」ってしてほしいのか。どれも何にもならないことはわかっているのに。私は露出狂か?……そうかも。

長方形の細長い部屋の短辺の一辺にベランダがあって、そこの窓を網戸にしておいて、もう一辺のほうに扇風機を置くと、ちょうど風が通り抜けるようになって、だいぶ涼しくなってきた今夜みたいな日にはちょうど気持ちがいい。
そうやって風に当たっていると、自分がどうとか考えることもどうでもよくなって、ただ無心に風に当たったりもできないことはない。……なんて微妙な。

壊れそうな自我を抱えて、
無駄に高いプライドに邪魔をされて、
壊れきることすらできずに、
ばらばらになりそうなピースを必死でかき集めて、
元のかたちに戻そうとするけれども、
すでにそれに形などはあろうはずもなく、
いったい私という形は、
どんなものであったか、
どういうものでありたかったのか、
そんなことさえ思い出すこともできず、
かといって新しい形を作るには、
何かが足りない。
足りないものを数えるよりも、
今あるものを確かめることが、
生きていくには必要だとはわかっていても。

私という人間には、
根本的に欠けている何かがあるような気がして、
それを持っていそうな人間に、
殺したくなるほどの嫉妬を覚えて、
そんな自分を消したくなって、
それでも生きることをやめられず、
堂々巡り。逡巡。
私にはできない、
なぜあなたにはできるのかと尋ねたら、
「天然ボケ」だと笑われた。
その意味が私にはわからない。
できないことを嘲笑されたのか、
できていることに気づいていないことが失笑を買ったのか、
そうであるならば、なぜ私はできないと感じるのか。
この焦燥感と疲労感はどこから湧き出るのか、
どうか教えてほしい。

-
いろんなことをいっぺんに考えすぎて、
考えることに集中しすぎたら、
頭の螺子をキリキリまわしすぎて切れちゃったみたいな状態になっちゃった、みたいな。

どうも考えすぎて飽和すると
私は色ボケ状態になりやすいらしい。
決して何かいいことがあったから、とかいうわけではなく
思考の嵐から抜け出したくて、
頭も体もそういう状態になってしまうよう。
そういうの、何ていうんだっけ?逃避みたいな。
昔保健の授業で何か習ったなぁ……
ともかく別に何か根拠があるわけでもなく、
突然そういう状態になるから相手も訳がわからんくて、
そういう時に限って相手もあんまりそういう私の状態に
付き合ってられるような状況でもなく、
こういう時はさっさと寝てしまうに限るけれど、
こういう時に限って眠気はなく、
眠剤飲もうかと思っても、明日目が覚めなかったら困る
ような仕事があったりして。
そんでうっかり化粧ポーチの中の秘密の道具を
見つけてしまったりするのです。

今じゃそんなにマイナーなことではなくなったようだけれど
あんまり一般的なことでないことはわかっているし、
自分でもそんなに積極的にしたいことではないんだけれど、
生きていくためにはこっちの世界に戻ってこなきゃなんない。
なんであっちの世界に行ってしまいそうになるのか
そんなことはわからない。
もしかしたらもうすでに片足ぐらい突っ込んでるのかもしれないし、逆に全然そんなものからは遠いところにいるのかもしれないし。自分GPSみたいなのがあればちょっと便利かもしれない。でも、GPSがあったところで、目的地までたどりつくのは結局自分の力だし。
優秀なカーナビがあったところで、自力で車線変更できない私の場合は、目的地までたどりつけるとは限らない。右折が嫌いで、どうも左折しかできないとか。いや、そんなことはないか(笑)さすがに右折はできるけど。

日記はとりとめがないからこそ日記なのです。
日記を公開することに意味があるとしたら、そんな私のとりとめのなさを見て、何かコメントしてくれる人を待っているのかもしれないし、ただ私がまだ生きてるよってことを報告してるのかもしれない。

昔むかし、東大路丸太町の「ねじ式」というお店に連れていってもらったことを覚えていますか?
あの頃の私は、今の私よりもずっと子どもで、いつかこんな私である日々がやってくることなど想像もしていなかった。