えっと、この数日の書き込みは別に悩んでいるから書いたんじゃないんです……
(心配させてごめんよ、gingerサマ……)
社会学に関わる者の一人としての興味というか。男女の差異(というか、男女に期待される役割の差異)は厳然としてそこにある(と、思う)。にもかかわらず、それを意識せずにいられる人はなぜ意識せずにいられるのか?と思うのです。内面化されすぎて意識されないのか、そのような差異を意識させるような出来事がその人には起こらなかったのか。

で、ここ数日性差についての書き込みをしていたのは、祖父の葬儀の前後で性差とそれにまつわるいろいろな事柄を意識せざるをえない出来事が続いたからです。
私の記憶の中で最も古く「男女に期待される役割とは違うのかもしれない」と思った出来事はたしか中学生ぐらいの時のことです。うちの父の実家へ家族で帰省したときに、うちの母が姑(つまり私の祖母)に「yuzinhaがお手伝いをしないのは、母親であるあなたの躾が行き届いてないからじゃないか」というようなことを言われたのです。私はそれを父から聞き、そして怒られたのです。「なぜおばあちゃんの手伝いをしないのか」と。
私にとって父から怒られたことはまったく理不尽なことでした。うちの母親は「手伝いをするぐらいなら勉強かピアノの練習をしなさい」という人だったので、小中学校時代の私はほとんど家の手伝いをしたことはありません。(むしろ、手伝いをしようとすると怒られた)父もそれまで母と同じように私に言ってきました。それなのに、どうして「おばあちゃんの手伝い」はしないといけないのか、しかもなぜ弟は同じように怒られないのか、祖母は私ではなく母に言うのか、なぜ私は母ではなく父に怒られたのか。
これが私にとって初めて「家族の中での役割」「男女の役割」について、ただそこに性別の差異があるという以上に期待される役割の差異があるのではないかということを意識した出来事だったように思います。その後もいろいろと細かい出来事はありましたが、結婚が遠い将来の夢の出来事ではなく現実のものとして身近になるにつれて、自分の主義主張はとりあえず置いておいて「女性(や妻や嫁)に期待される役割」をそつなくこなしたほうが、生きやすいこともあるのだなぁということを学んでいったように思うのです。
今回の祖父の葬儀に関しても、いつもは今風でフランクな叔母が黙々と働いていたのは「長男の嫁」だから。私が弔問客にいそいそとお茶を出したりしていたのは孫とはいえ、いい年した女の子がお茶のひとつも出せないようでは恥をかくのは(私だけでなく)家族だから。祖母の身の回りに気を配るしっかり者の孫娘をしていたのは、もうすぐ結婚する娘がぼんやりしていたのでは家族に心配をかけるから。だから、そういう役割をきちんと果たすことを期待する空気はあったと思う。別にそれが不満だとかそういうんじゃないんです。ただ、そういう「空気」は確かに今でもあるんだよなぁということを思ったということ。
いくら男女平等になってきたと言われても、そこかしこにいろんなものが残っている。そういうものに乗っかってしまったほうがうまくいく(波風を立たせずに済む)こともある。そういうことを意識しないで済む人ってどんな人なのかなぁという興味がある。そういうことなんです。
で、今回私は「嫁に期待される役割」とかそういうもののことを挙げてみたけれど、そういう「女性(女の子)に期待される役割を素直に果たしておいたほうが事がうまくいくこともある」っていうことの例としてあげたのが、数日前のエントリに書いたモテる云々の話だったのです。(長々と言い訳をしたようで非常に格好悪い……)モテて得をするかどうかはその人によると思いますが、少なくとも無駄に「かわいくない」などと否定の言葉を浴びせられるのも辛いことです。自分の話をしてみれば、どうしようもない自分の女性性と、女性として扱ってもらえないこととのギャップをうまく埋められなくて拗ねていた時期が結構あったので、なんか損したような気がするという気持ちもあったりします。被害妄想入ってますが。