誰でもひとつくらいはコンプレックスを持ってるもんだと思うけど、
私もご多分に漏れず、たくさんコンプレックスは持ってる。
んで、そのうちの1つが「私は面白くない」ってことだ。
これは別に関西風のノリツッコミができるかどうかってこととは関係なくて、たとえば私としゃべって相手が私の話の内容を面白いと思ってくれるかどうかってこと。で、私は基本的には面白くないと思ってるんですね。
大学に入学してしばらく(2年半くらい)の間は、「どうせ話題合わないし」とか「どうせ価値観違うし」みたいなかんじで、あんまり人とコミュニケーションを積極的にとろうとしてなかったんだけど、それは実は「私としゃべっても面白くないでしょう」というビビリの裏返しだったような気もする。高校に入ったくらいから何となくそういうことを思いだして、それから勢い人見知りになってしまっていた。
今思うともったいないことしたよなぁと思う。だって、それは私の思い込みに過ぎなくて、実はすごく仲良くなれるチャンスだったかもしれないのに。実際に面白くないかもしれないけど、それは可能性の話であって、すごく面白いと思ってくれる人もいたかもしれない。まあいいんだけど、過ぎたことやし。
こうして何となくブログというものを書き始めて、自分のサイトとか作ってやってるのは、私にとっては、他の人にとっては面白くも何ともないかもしれないけど、自分の内にだけ思いを溜め込むことが自分の精神衛生上よくなくて、でもそういうことを吐き出すのにも相手を選んでしまうし、じゃあネットという誰か見るかもしれない、でも見ないかもしれないようなところに書きちらすってことで落ち着いたっていうのがある。消極的積極性?
で、面白いってのはどういうのなんだろうって考えるけど、それは人によってあまりにも違うし、それこそ昨日も書いたように、人の好みと同じで「何がツボか」ってのは人それぞれだろうってことで。じゃあとりあえずぶつかってみたらええんちゃうの、というのが最近の私のスタンスで、それでやっぱりあかんかったらそれはそれやし。
そもそも「私は面白くない」というのは、ある人にそれを言われ続けたことが原因でそれがコンプレックスにまでなってしまったんだけど、そういう他人によって植え付けられてしまった価値観とか考え方っていうのは、それをされていた期間を超えてもまだなお自分に残ってしまうもので。だから親になるっていうのは怖いことだよなぁとか思うんだけど、まぁでも自分で「やっぱりそれはおかしいんちゃう」って思えたなら、それをゆっくり時間をかけてリハビリしていくことは可能だと思う。そういう意味では、大学に入ってからの時間っていうのは、私にとってはいろんな意味でリハビリの時間だったのかな、と思う。
そういうある意味抑圧的な出来事によって、自分の身に起こった結果というものを、自分の人生に引き受けるってことは、うっかりしていたら憎しみとか嫉妬とかそういう感情になりかねないけれど、私はそういうのはやっぱり避けたいと思う。だから「リハビリ」やって思いたいのかもしれない。そういう負の感情ってエネルギーの浪費だと思うし、キレイごとかもしれないけど、そういうものには遠いところにいたいって思う。人が人を裁くってことだけは、私は間違いやと思うから。でもそれもキレイごとなのかもしれないけど。私は裁くほうの立場になったことがないから、そういうことが言えるのかもしれない。裁かれて、その結果起こったことに関してはコメントできるけど。

(そういえば、ようやく示談が成立しました。わかる方には一応お知らせしておきます。)