同じ学校だったっていうことの親しみやすさと気持ち悪さ

縁あって、昨年末あたりから大学の校友会の大阪支部のとある部会に顔出すようになってます。これがもう!社会人1年目の私なんかは場違いも甚だしい会で、大体どっかの取締役とか起業家とか○○士みたいな人ばっかりがいるところなのですよ。
とはいえ、私の職場は大体30前後の若造ばかりの会社なので、普段は聞けないような話とか聞けて面白いし、若い女の子(40代でも若造という世界だから…)というだけで妙にかわいがって下さるオジサマ方もいらっしゃるので、何となく行き続けてます。

それはそれでいいんだけど、そして同じ大学出たってだけでいろいろ親切にして下さる方もいて有難いし、同じ場所で時間を過ごした親しみやすさというのもわかるんですが、一方で気持ち悪さも感じるわけです。これはうちの行ってた高校の人たちにも感じる気持ち悪さでもあるんだけど、卒業してまでもなぜそこまで自分の出た学校が好きなのかと。
そりゃ悪くは思いたくないだろうけど、そこまで持ち上げることはなかろうと私なんかは思うわけですよ。そこで出会った人たちとどんなにいい関係を作ろうとも、それはその学校を出たということは一つの要素に過ぎなくて、時代とか出会いとかいろんな要素でそうなってるはずで、それを学校という要素に還元しすぎるのはちょっと思慮が足りないというか、恥ずかしいような気がするわけです。

持ち上げるのも褒めるのもいい。だけど、その一方で抱えているはずのマイナス要因にもきちんと目を向けて、なおかつ他のコミュニティやネットワークに対して寛容でなければ、それは一種のファシズムではないのか?と。
篤姫」でこんな台詞があって結構気に入ってるのですが、「一方聞いて沙汰するな」と。何かに対して思い入れや好きという気持ちがあるときに、そうであるがゆえに自分の目が曇っていないか、それを常に意識していないとちょっと怖いなと思うのです。