引用はすべて健全な肉体に狂気は宿る―生きづらさの正体 (角川Oneテーマ21)より。

でも,平均寿命みたいな統計数値って個人にとってはまったく無意味なものじゃないですか。「平均」なんだから。自分が平均通りの人生を平均通りの健康状態で平均通りの賃金を受け取って平均寿命まで生きるなんてこと,どうして信じられるんですか。それが信じられるということがぼくには信じられない。

もちろん,内田樹は「平均以下にしかなれないかもしれない」状況も想定にいれている。(と,信じたい。)そんなことは百も承知の上で,私が進学を決意した一番大きなファクターは「次の瞬間には何が起こるかわからない」という感覚で,「じゃあ今やりたいことをやってみよう」と。単一の目標に縛られてすべてを「とりあえず」で先延ばしにして閉じこもっていた時よりも,いろんなことに首をつっこんでやってきた今のほうが「なんだかよくわからない可能性」は大きくなってると思う。この先いったい私が何になるか皆目見当もつかないけど,どっかから「何か」がやってくるだろう,と思いつつ生きている今の方が断然楽しいのは明らかで。

同じ家の中に長く一緒にいて,同じものを食べて,同じような起居のリズムの中で暮らしていると,やっぱりその空間に固有のある種の生物リズムみたいなものが生成されるんでしょうね。そして,喜怒哀楽の感情とか爽快感とか空腹感とか,メンバーの一人の強い心の動きに,なんとなく他のメンバーも同調していくんですね。多細胞生物の中の細胞の一つみたいな感じになって。

ですから,メンバー同士の間での対話やコミュニケーションがどれほど円滑であっても,それは家族の本質とはあまり関係ないんです。むしろ,そのメンバー間のコミュニケーションから「こぼれ落ちるもの」,「ことばにできないこと」のうちに家族の本質は棲まわっているわけで。

この間,帰省してそのまま友達の家にしばらく滞在して京都に帰ってきたときの疲労感ったらなかったんだけども,その時「他人のペースで生活することのしんどさ」と「今の生活がすっかり今の自分のホームベースになっている」ということを実感していた。だから,このことはすごくよくわかる。私は今,本来であれば他人であるはずの人と生活をしていて,たしかにどこまで行っても彼とは他人であるんだけれど,なのにその彼との間に生まれている「他の人にはわかりえないであろう空気」というものの存在は確かに感じている。本当にささいなことだけれど,冷蔵庫の残り物で作った夕食が彼が今食べたいものだったりとか,一緒にテレビを見て同じところでワーワーキャーキャー言ったり,ということがどれだけ今の自分にとって生活のおおもとをなしていることか。そういうことを考えたら,一緒に住んでみたことっていうのは意味のあることだったんじゃない?って思えてきた。ままならないこととか,イライラすることがどれだけあったとしても,やっぱり私は何モノにもかえがたい経験をしているということに気付けただけでも嬉しい。

で,ここを読んでトドメを食らった気分。

内田 ぼくはよく「両論併記」とか「継続審議」って言うんですが,どちらも経験的にはすごく有効なんです。要するに「ちょっと待ってみる」ということなんですけど。ただ論議を棚上げにしているだけと受け取られがちなんですが,そうじゃない。「時間」というファクターは想像以上に重いんです。決断できない状況でも,それをある程度時間的に維持するこさえできたら,とても解決できそうもないように見えた問題が一気に決定し合意が成るということは間々あるんです。(略)でも時間が経てば,未決だったファクターのいくつかが確定して,取りうるオプションが自ずから限定されてくる。ですから,結論が出ないときも急がないということ。「ウーン,ちょっと待ってね」とぐずぐず時間稼ぎをするというのはけっこう有効なんです。(略)ここ一番というときにはいきなり立ち上がらず座り込まず,中腰でぐっとためておくのがいいんです。
春日 たいがいは,中腰になっていると不安の方が先に来てジダバタしちゃんだよ。だから,意識して経験を積んでいくしかないんだよね。

……そういうことだったのか!!早まらなくてよかった……