昨日,今日と「いかにして社会学は学問として生き残るか?」というテーマでゼミが進行する。
いや,本当はそんなことがテーマじゃなかったんだけど,気がついたらそうなってた。

特に私は計量系の社会学徒(多分)なので,そこらへんは結構キモだったりする。
計量系というと,俗に言うアンケート調査とかそういうのを統計的に分析して何かを論じるということになるのだけれども,そういうことがだんだんとやりにくい世の中になっている,というのが計量系の研究者にはある。おそらく。
というのは,世の中を見るのに属性(性別,年齢,学歴など)だけでは切り口として不十分な局面が増えてきて,それはつまりライフコースとか価値観とかそういうものが多様になってきたからなんだけれども,それじゃあ意識とかを測ってみたらどうかと思うんだけれども,そういうものを計量的に測るというのはとても難しくて,何をどう聞いたらそれは「統計的に有意です」と言えるのか,という壁にぶち当たる。人の意識が数字であらわされることに対してものすごい嫌悪感(あるいは敵意)をあらわす人がたまに(社会学者の中にも)いるけれども,それに対しては私は「ちょっと待てよ」と思う。これは私の直感−研究者の卵としての生命線とも言うべき−に過ぎないけれども,本当にみんな個人個人ばらばらで,(たとえば)ある社会に共通した,何らかの実感だとか規範(義務感とおきかえてもいい)というものも何もないのだろうか?私はそうは思わない。そしてそういう「何か」を何らかの形で数字によってあらわすことはできると思うのだ。
なぜ1日でも風呂に入らないことが「女を捨てること」だとみなされるのか(男ならいいのか?),なぜ実家にあまり帰らないことが親不孝だとされるのか?(実家に帰って親に何でもやらせてふんぞり返っててもいいの?)なんで「素直じゃないと社会に出てやっていけないよ」と言われるのか?(すいませんね,ひねくれてて)
まあこんなことは本当に些細な例なんだけれども。もちろん,私も数字で何でもあらわせるとは思ってない。自分にそれができるかどうかもわからない。ただ,私という存在がたとえ大きな機械の歯車にすぎないとしても,どういう機械の歯車なのか,どこでどういう働きをしている歯車なのか(もしくは歯車にすらなれない存在なのかを)知って生きることと,歯車である(かもしれない)ことにすら気付かないで生きることとは,私にとって大きな違いであるということなのだ。

で,話の本筋に戻れなくなっちゃったけれど(笑)社会学っていう学問が法学や政治学や経済学なんかの他の社会科学にできない何ができるのか?社会学はどう役に立つのか?社会学の売りは何なのか?というような話をずっとしていたのでした。さてどうなのでしょうか。